きのうベトナムの同性愛者に書かれた、「影(かげ)」という小説を読んだ。
この「影」はどういう意味を持っていいるのか、ちょっと好奇心が出たから、読み始めた。辞書によると、影とは、物体や人などが、光の進行を遮る結果、壁や地面にできる暗い領域である。その定義から分かるように、影は、ただ本モノの形を借りた真っ黒いものだけであり、いつも本モノにくっ付いているものである。言葉を変えれば、影の存在は、本モノにとってあまり意味をしていないわけである。ある面で考えれば、影がどうやら偽モノとして存在するかもしれない。
しかし、この小説を読んだ私は、同性愛者にとっては、逆に影が本モノだと感じる。男性の形をしている男は、女性の影を持っている場合は少なくないだろう。そして、反対の場合も多いそうである。つまり、同性愛者の場合に、本モノであるはずのものは偽モノになってしまい、もともと偽モノと考えられたものは以外に本モノになっているということ。
この小説の作者は女性の影を持っている者である。彼(あるいは、彼女)の体験から見ると、同性愛者は、「本当の私」というものを意識したとき、難しい選択をしなければならなくなるそうである。一つは、影を受け入れ、世界に影を見せるということ。もう一つは、他人から影を隠し、普通人として生きること。実は、どんな選択をしても、ついに同性愛者こそが、寂しく孤独な結末に陥ってしまうという。彼の話は代表的な例である。
私にはなぜ、どうしてという気持ちが出てきた。「本当の自分」を受け入れるのは非常にいいことではないだろうか。誰でも、欠陥が大きな自分を受け入れ生きる勇気を手に入れるわけではない。でも、どうして、そんなにいいことをしたのに、幸せになれなかったのか。
答えは一つしかないと言われた。
「私たち、生まれながら同性愛者だから。十分な幸せを探すのは無理だよ。」
神様、ちゃんと聞こえませんか?「無理だ」って。
神様は、人間を作ったとき、男性の格好の中に女性の心を入れてしまいましたよね。間違い、それとも、いたずらですか?どちらでもおかしいんですよ。不公平ですよ。
ねえ、神様、ご存知ですか?同性愛者は、この世では、一番寂しい人間ですよ。
もし、ドラえもんが影を切るのに使われる、「かげがり」という道具を貸して差し上げれば、ちゃんと切ってやっていただけませんかなぁ。
ただ、本当の同性愛者たちは、こういったブームをあまり歓迎していないようです。