2009年08月10日

夏の涼しい日にホームレスばさんに出会うことを少し考え


乞食・物乞い

 

そして

 

浮浪人・ホームレス

...

 

同じであるか?違うか?

実は、同じか、違うと言ってもいいと思う。誤差が微妙だから。辞書を引いたら、日本語ではこういう風に定義されている。「やむをえない事情、あるいは本人の意思により、他人から物品や金銭の施しを受けて生活している者(物乞い(ものごい)、ものもらいともいう)。一般に住居を持たない貧困者(ホームレス)が行う事が多いと誤解されているため、転じてホームレスをさす言葉としても使われる場合がある。乞食は必ずしも住所不定ではない。」


 
ベトナム語では浮浪人・ホームレスという言葉はあることはあるが、普及していない。ベトナム人が使い慣れているのは、乞食・物乞いという言葉である。そして、浮浪人・ホームレスマンと言えば、乞食や物乞いをしながら生活する人々だと、思わず思い浮かべる傾向があるそうである。実際とは違うかもしれない。ホームレスマンが乞食をすると必ず言えるに限らない。

ここまで言うと、毎朝バスで通学するときよく見たホームレスばさんのことを思い出した。そのホームレスばさんのことを少し語りたい。レゲエばあさんだと勝手に呼んで、この前そのおばさんについて書いたこともあるが、日本語ではホームレスの方が正しいと教えてくれたから、ここではレゲエばさんではなく、ホームレスばさんで呼ぶことにした。おばさんは40〜50代ぐらいであり、ボロボロした格好をしている。いつも大きくて汚い鞄を持って、ハノイの賑やかな方の路上でのバス停で座っている。住居を持たないに違いない。

 

子供のときから乞食を見慣れてきた。おもらいさんたちは何というか...いつも他の人からの情けをかもしだす可哀そうな顔、そして目をするような気がした。わざとそうするかどうか分からない。しかし、そのような顔と目つきは人の親切と喜捨に仰ぐ暮らし方に由来していると思う。そのおばさんとは全く違う。初めて見たとき、私の注目を惹きつけたのは、そのおばさんの目つきであった。何度も会っても、その無情な顔で、その空虚な目でじっと目の前の人とバイクの流れをじっと眺めていた。精神的な病を持っている人の目のように見えない。ただ、世間から浮く一人ぼっちの人の目つきだった。たぶん家族、親戚なんかもないだろう。

 

私の見慣れているおもらいさんともう一つの違うところは、そのおばさんは乞食をしないということ。そのため、レストランの余った食べ物や捨てられた食べ物を拾ったりすることによって生活している。ゴミ箱から食べ物を探しているの見たことがある。何で乞食をせずに、そんな汚い風に生活するのかと、問わずにはいられない。ふう〜...乞食を「仕事」の一種にするならば、そのおばさんには職業がないと言ってもいいだろう。

 

外国ではホームレスマンが町の暗くて汚いところなどでグループずつ集まるそうだ。ベトナムでは職業として乞食をする人々はグループで集まり、一緒に暮したりすることもあるようだ。昼間は皆バラバラ歩いて「仕事」をやり、夜は一緒にどこかに帰って寝る。何と言っても仲間同士はまだいいるだろう。そして、ずうずうしい乞食によって人間とのコミュニケーションをまだ維持しているのではないだろうか。そのおばさんのようなホームレスマンは仲間同士も持っていないし、人間とのコミュニケーションもほとんどない。そんなカッコウで誰にも話しかけてもらわないから。

 

ベトナムの革命時代文学の有名な小説家(ナム・カオ)に描かれた「チーフェオ」という人物を連想した。チーフェオは、そもそも純粋な貧しい農民であった。殖民主義の刑務所の残酷で凶悪な鬼に変化してしまった。そのため、村に暮しても、村民に誰にも話しかけてもらわなかった。老人から子供まで誰に会ってもケンカをしていた。酔った狂い鬼の言葉だと思って、誰でも言い返してあげなかった。実は、その酔った者の心のどこかで人間とのコミュニケーションに飢えていたので、ケンカという最低なやり方までもやってみた。それは意識的な行為ではない。その分析はただ、彼の行為から読める隠れたものだ。その作品の結末はチーフェオが自殺したことだ。日本語に翻訳された「チーフェオの死」というタイトルで知られている。もちろん、ホームレスばさんはチーフェオと違う。一人は生きている現実的なものであり、一人は空想な人物。ただし、小説の人物だけを見ても、人間とのコミュニケーションが欠かせないものが理解できると思う。

 

だから、このホームレスばさんの事情を考えてみると、おばさんは

住居

家族

親戚

仲間

職業

人間とのコミュニケーション

...

何も持っていない。属する場所はぜんぜんない寂しい人間と言っても過言ではないだろう。おもらいさんよりずっとつらいかもしれない。もちろん、元気で生きてほしいけど、おばさんは今何のために生きているのか、正直といえば分からない。

 

人間には、生きてゆくために一つだけのことを理解する必要があると思う。自分が属するところがあるということを確信するということ。それを意識していない人が少なくないと思う。自立して誰にも頼らなくなるように、必死に頑張って働く人が多いだろう。そして、誰にも頼りたくないと思って、自分の気持ちを外に出さないし、自分の問題を自分で解決する人も少なくないと思う。しかし、どんなに自立する人でも、それとも孤独が好きな人でも自分が属するところが分かるべきだ。生活のバランスを維持する大切な方法だからと思う。その「属するところ」というのは人間でも場所でも趣味でも...人の存在を明確するためのものさえであれば何でもいい。人間は誰かに必要とされているという気持ちで生き、そして働くと考えられている。「自分が誰かに必要としてもらいたい」という気持ちは、自分の存在が他人にちゃんと認められる期待をはっきり証明すると思う。

 

だから、もしかしてそのホームレスばさんは前述以外の特別な理由で生きているならば、本当に知りたい。なかなか考え出せないから。

posted by ノラ猫 at 01:14| ハノイ ☁| Comment(5) | TrackBack(0) | ただ、しゃべり・・・ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
その人は、何か特別な事情があって、自分の属するところにいられなくなってしまったのかもしれませんね。少なくとも、生まれたときには自分の属する家族があって、その家族はその地域に属していたのでしょうから。
あるいは、自分の属するところに自分自身を合わせるのが面倒になってしまったのかな。だとしたら、その人は自由を楽しんでいるのかもしれませんね。
Posted by 村上吉文 at 2009年08月10日 07:01

村上先生>

コメントしてくださってありがとうございました。

自由を楽しんで生きるというタイプなんですか?確かにそういう人もいるかもしれなませんね。

ただ、そのおばさん...一日中目の前の人を眺めるというのは、どんなタイプの自由でしょうか?しかし、、その可能性がないというわけではありませんから、ちゃんと考えるべきです。
Posted by フオン at 2009年08月10日 19:23
フオンさん、こんにちは。

今回の記事、これまた、いろんなことを考えさせられました。そのおばあさんは、かつて属していた場所から、はじき出されてしまったのか、自分の意思で出たのか。

だれかから必要とされている、と確実に思えることは、生きていく上で、絶対必要だと、私も思います。

話は飛ぶかもしれませんが、愛情の反対は憎しみ、とよく言いますよね。でも、憎しみは、まだ相手に関心があるからこそ、起きる感情。「無関心」が本当は愛情の反対だ、という話を聞いたことがあります。

おばあさんの空をみつめる目は、誰かから関心を持たれることを諦めた目なのかな、とも思いました。
Posted by BlueRose at 2009年08月12日 11:57
BlueRoseさん>

コメントしてくれてありがとうございました。

そうですね。「愛情の反対は無関心であり、憎しみのほうがまだいい」ということ。
高校で学んだ「チーフェオの死」という短編小説のおかげで、そういうことがシミジミ分かってきました。

時間があれば、ぜひ読んでください。日本語に翻訳されたそうです。
Posted by フオン at 2009年08月13日 16:45
ぐりこ様のThe ICEテレビ観戦記の長いコメントを刮目して読んでいて、その下に続くコメントを読むと、その流れに爆笑してしまうのですが、これはネタですか?
Posted by 篠田麻里子 キャバ嬢写真 at 2013年06月18日 18:38
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