2009年12月16日

自由と責任感

  

今 日本に暮らしている。

毎日日本の水を飲んだり、日本の料理を食べたり、日本の空気を呼吸したりしている。

目を覚めたら、日本の景色を眺めたり、日本のテレビを見たりしている。

目を閉じたまま手を広げると、日本の冬・風・雨・太陽・空を抱きしめるような気がする。

 

そう!確か今日本にいる。やっと実感が湧いてきた。

 ただ、バランスのない境に立っている微妙な感じをしている。

それは、「自由」と「責任」の間の境である。ベトナムにいたとき、責任感が強かったと思う。別に誰かに束縛されて、責任感を与えられるわけではないが、自分の行為と感情表現にはどうしても限界がある。言葉を換えれば、自分の立場を考えて行動するべきだという21年生きてきた自分のイメージに対する責任が無意識的に頭の中にある。その限界・責任感を生み出したのは21年成り立ってきた習慣というものだと言ってもいいだろう。

 

たとえば、スキンシップをするのはこの前の私の習慣ではなかった。しかし、日本に来て、それは普通の行動になった。うれしいとき、寂しくて泣きたいとき、友達と抱きしめつつだきしめられつつだった。本当に暖かい気持ちになれた。ベトナムにいたときの自分の姿を顧みると、どうして親、そして寂しくて悲しくて泣いていた友達・親戚を抱きしめてみて慰まなかったのかという問いが出てきた。友達と抱きしめを交わすことを妨げるのは缶詰めされた習慣というものだとも分かってきた。

 

習慣を変えるのに刺激が必要だ。私にとって刺激とは生活環境を変えることだと思う。あなたのことが誰も知らないところへ来て、新しい自分のイメージを自分なりに自由に超初めから築くことができる。または、うとうと眠っていた自分の中の一部を起こしたり、枠から解放したりすることができる。これはよく聞かれているつまらない結論だと皆さんに思われるかもしれないが、私がシミジミと感じているものだ。そう!缶詰めされた私の一部は運が良くて日本で「自由」を見つけられた。

                                                                                                   

しかし、やはり21年生きてきた私の部分は不安だと感じてしまった。日本に来たばかりのとき「自由バンザイ」という気持ちで毎日目を覚め、青空が見えるでも幸せだと思った私は、「遊んでばかりいるのはいやだ。暇すぎ。ちゃんと勉強したい。やる気がぜんぜんなく、平々凡々な生活を送りたくない」と思い始めた。築かれた習慣を無くして、自分は誰だか分からなくなるといえる一種のストレス。ベトナムにいるならば、もう成り立ってきたストレスを解放する方法を利用して、なんとか落ち込んだ気持ちを乗り越えられるかもしれない。新しいところに行って、そのストレスを解消する環境がなくなったせいか、つり革をなかなか見つけられなかった。。。ここに言いたいつり革とはやる気、ある程度の圧力と責任感だ。

 

「自由」と「責任・義務・圧力」の間のバランスが崩れると危ない状況に陥るに違いない。人間は存在証明のために躍起になるものだと言われている。他の人に自分の存在価値を示すだめではなく、自分こそに「自分がここにいる」という実感をちゃんと与えるために、何か興味を持っていることをやるべきだと思う。「自由」は素晴らしいことだが、自由すぎると存在していないような感じをするかもしれない。どこにも属していないと一緒かもしれない。やはり、人間だから自由も責任感も必要だと思う。

 

そう!今日本にいる。そして、自由と責任感の間のバランスについての教訓は受けた。。。

  

「歩んで、ときどき止まって省みる」のは生き方を勉強する若者の方法だと思っている。趣味・興味・目標などがないのはダメの者だ」とは思わない。若いから、ただまだ見つけていないのみだ。だから、心配せずに顔を上げて、胸を張って、後悔しないように生きてゆいてください。

  

さあ、省みる時間が修了、行き続けよう! 

posted by ノラ猫 at 19:31| ハノイ ☁| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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