2008年10月22日

チョークの粉



これは、私が小学校で教えてもらった大好きな歌である。ベトナムでは子供から老人まで誰にでも知られて、歌われている。とても人気がある。それは、先生に対する学生の気持ちについて書かれて歌だからである。その歌の内容は「教師を尊敬して、道徳を大切にする」というベトナム民族の伝統を表している。それに、歌詞とメロデイーが覚えやすく、歌いやすくて、本当に心を動かされる。以下はその歌詞である。

「先生が黒板に字を書いている時、チョークの粉が飛び散っている。先生が立っている教壇に落ちる粉もあるし、先生の髪の毛に付く粉もある。私はそういう時を愛している。私の先生は髪の毛が前より白くなってしまったようである。チョークの粉で髪の毛が白くなったのは私たちに良いことを教えてくれたからである。将来、大人になった時、どうしてもその時間が忘れられないし、どうしても先生が小さな私に教えてくれた時間が忘れられない。」

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posted by ノラ猫 at 00:23| Comment(3) | 作文 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年10月23日

人生についての考え方

人生についての考え方

「人生というのは何だろうか」という問いが頭の中に出てきたことがあるだろうか。たぶん一、二度はあるだろう。人生を定義するのは難しいと思う人もあるし、どんな問いよりもむしろその問いの方が簡単だと思う人もある。私は。人生とは何かが分かった時は生活に対する態度を選んだ時にちょうど当たると思う。

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posted by ノラ猫 at 04:32| Comment(0) | 作文 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

ベトナムのキツネさんの話

狐はなぜ死んだのか


皆さん、今日は!

まず初めに、「八助稲荷(いなり)」という日本の昔話を紹介させていただきます。

「昔、ある所に親切な殿様がいました。ある日殿様は町で傷ついた真っ白な狐を見つけ、お城につれて帰ってやさしく介抱してやりました。数ヶ月後、殿様は七日以内に江戸に大切な手紙を届ける必要が出てきました。それができる者が誰もいなくて、殿様が困っていたとき、八助という若者が殿様の所にやってきてその仕事をやらせてほしいと言いました。八助は江戸まで走って大事な手紙を渡し、その返事を持って戻りました。三日しかかかりませんでした。それで八助は殿様の一番大事な飛脚(ひきゃく)になりました。ある日殿様に江戸へ行く途中で何か面倒なことはないかと聞かれた時、八助は「小田原(おだわら)のむく犬です」と答えました。殿様は笑うだけで信じませんでした。ある日八助が江戸からなかなか戻らないので、殿様は心配して小田原まで八助を探しに行きました。見つけたのは大事な手紙の入った箱を抱えたまま死んでいる真っ白な狐でした」

昔話はこれで終わりです。皆さんはこの話をどう思いますか。私
は少し変だと思います。どうしてその狐はそんなばかな死に方をしたのでしょうか。その殿様に自分は以前助けてもらった狐だと告白するのが最も賢いことだったと思います。事実を知ったら、殿様は八助の心配に気づいて、小田原に人を送ってむく犬を殺したと思います。八助は死なないで済んだのです。でも八助はベトナムの狐ではなく、日本の狐ですね。他の人に自分の心配事を言うなんてありえませんね。殿様も日本人です。八助が本当のことを言ったら、殿様は八助の恩返しを断るに違いありません。

日本人には他の人に迷惑をかけないように行動する習慣があるそうです。それで、日本人は自分の困難を自分だけで解決しよう、本当の気持ちを外に表さないようにしようと努力しているようです。その努力は日本人には美徳と評価されていると聞きました。


でも、その美徳は人々との間に安全な距離を置くということになると思います。この安全な距離というのは他の人も自分も傷つかない距離です。誰に対しても、冷たくもなく温かくもない態度をとるということです。でも、その安全な距離は少し危ないと思います。いつもそのように距離を置いていると、なかなか親しい友達ができないのではないでしょうか。日本人の間だけでなく、外国人との距離もますます広がっていくように思います。

また、他の人に迷惑をかけたくないばかりに、我慢して自分で解決しようとすると、ストレスで病気になってしまうかもしれません。人間はまず自分のために生きる必要があります。他の人のことを考える前に、まず自分の気持ちを大切にして、自分が嫌だと感じないように行動したほうがいいと思います。

他の人に迷惑をかけるのではないかなんて考えないで、他の人に自分の心に入り込むチャンスを作っているのだと考えてみてはどうでしょうか。相手の人も、本当の気持ちを話してもらったことで、自分が信頼されていると感じて、うれしくなるかもしれません。つまり、迷惑をかけるということも、ある時には、相手の人に喜びを与えて、人との距離を小さくするのです。

これは日本語を勉強している私の勝手な考えですけど、日本の方もそういう風に考え直してみたら、人間関係の処理がもっと気楽になるのではないでしょうか。


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先生、どうもすみません。。。

posted by ノラ猫 at 04:55| Comment(2) | 作文 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年10月26日

人間は生きるために食べる


 
もし、リストラ時代には、あなたの同僚のOOさんが社長に肩たたきされ、「すみませんが、退職してくれませんか」と言われたら、あなたはどう思うか。たぶん、「あー、リストラの影響ですね。でも、どうしてOOさんなのか」という問いがすぐあなたの頭に浮かぶだろう。次に、「OOさんは十分働いていなかったのでしょう。私は、絶対OOさんと同じのようにならない。もっともっと働かなければならない」という決心が生まれてくる。結局はあなたは以前にも増して働くようになる。職場での残業だけでなく、ふろしき残業も熱心にする。幸いなことに、あなたが社長や部長などに高く評価され、ようやく会社に残してもらえるのである。

しかし、不幸なことに、あなたは無意識にその会社に従属するようになる。その従属はいろいろな悪いことにつながると思う。

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posted by ノラ猫 at 17:32| Comment(5) | 作文 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年10月30日

「義理が片寄った社会」ー 作文



義理というのは何か?本当に定義しにくい概念だと思う。しかし、義理がある生き方がように簡単に理解できるかもしれない。義理がある生き方というのは他者に配慮をして、何もする前に、自分のことだけでなく、他者のことも大切にして、自分も他の人も傷つかないように決めたり、行動したりすることである。

その定義から見ると、義理というのは何だろうか?義理は一種の道徳の水準だと思う。その道徳を基礎にして、人間は自分の行為を選べることになる。その選択の目的は自分の気持ちと他者の気持ちがつりあい、誰も傷つかないように、自分の行為を整理できることである。その状態に達できると、「義理がつりあう」と呼ばれる。社会的には、つりあった義理が人間関係の処理には非常に大切な道徳の水準だと思う。

しかし、義理が片寄ったら、社会はどうになるのか?



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posted by ノラ猫 at 23:49| Comment(0) | 作文 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年11月26日

ハノイの処分場はどこか?




貿易大学の三年生の私はハノイには2年半も暮らしている。今のアパートは大学の近くにあるので、毎日アパートから大学まで1000メートルを15分で歩いている。「歩くの、いいじゃない?毎日自然に運動できて」と言われる度に、笑うだけで、何を言うべきなのか分からない。徒歩は本当に体にいいものであるが、毎日この通りを歩くのは、逆に、健康を破壊することである。

なぜかというと、そのように短い道にもゴミが非常に多く置いてあるから。想像以上のいろいろな種類のゴミが集まっている。しかし、一番多いのは建設ゴミである。両側にはどちらでもレンガや砂や小石などが置いてある。それだけでなく、時々、その大量的なゴミを拾い、どこかへ運んでいるハノイ環境衛生会社の大きなトラックも出ている。そのトラックがゴミを収集する時、ほこりが空気中にいっぱい舞い上がっている。

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posted by ノラ猫 at 02:23| Comment(1) | 作文 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年12月10日

家族についての変容した概念

家族についての変容した概念


時代の流にと伴って、「家族」についての概念が変わっている。それは当たり前のことであるということ。そして、人間の義務とは社会で受け入れられる限界からずれないように、その変化を適切に抑えることだともされている。しかし、現代の社会は目がクラクラするほど急速に発展している。それに従い、家族への考え方は人間のコントロールを超えるほど急速に変化しているらしい。

  「結婚せずに一緒に暮らすカップルとは家族である」=45%
  「一緒に子供を育てる同性愛のカップルとは家族である」=33%
  「一緒に暮らす同性愛のカップルとは家族である」=20%

to be continued ...
posted by ノラ猫 at 03:30| ハノイ 🌁| Comment(2) | 作文 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年02月28日

ベトナムでの男女平等

  

以前のベトナム人は男性も女性も誰もが、戦争や戦いに慣れていたとよく言われている。民族が外国から攻勢され、危険な状態に陥ったとき、呼びかけでさえあれば、男性が戦場に飛び込んだ。そして、後に残された女性は、家族を支える男性の責任をすべて引き受けることになった。つまり、戦場に出た夫が家事だけではなく、どんなことでも妻任せだったということである。当時、妻任せはしょうがないことだったとしか言えない。北からの王朝の支配と戦った1000年間、フランス殖民地主義とアメリカ帝国主義と戦った30年間のせいか、ベトナム人の女性が強くなり、政治や軍事や経営といった、もともと男性が得意だと考えられた分野にも参加できるようになっている。

 

要するに、社会的、歴史的、文化的な面では、ベトナム人の女性の役割が欠かせないものだと認められるようになっているのである。言葉を変えれば、「男女平等」という論は社会全体広範に認められ、行われていると思う。

 

しかし、今のベトナムの家庭では男女平等というものは大きな虚像だと感じる。

to be continued ...
posted by ノラ猫 at 11:21| ハノイ ☁| Comment(4) | 作文 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年05月24日

ベトナムと日本の昔話



これは、暇な週末に古い書物から発掘された、大学2年生のときの作文だ。この作文は、初めてベトナム語に翻訳された日本の昔話の本を読んだときの気持ちを記した。一年も経っているが、昨日書いたばかりの作文かのように感じた。

 

ベトナムと日本の昔話

 
以前、日本の昔話を読むたびに、「なんだ、これは?おかしい昔話だなぁ」と自分に言っていた。というのは、それらの話の人物と最後の結末は、私がもう読んだベトナムや他の国の昔話にあまり似ていないと感じるからである。昔話というものは主人公がいつも善人で、最後の結末はいつもその主人公が幸福になるものだと思っていた。つまり、昔話はハッピー・エンディングで幕を下ろすべきだということである。それで、日本の昔話を読んで、ちょっとショックを受けた。
to be continued ...
posted by ノラ猫 at 05:17| ハノイ | Comment(2) | 作文 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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